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1960年に科学技術庁(当時)が予測した21世紀初頭の未来技術の6割がはずれだったそうだ。
予測された項目に目を通してみるとロボット家政婦さんや、無人運転交通などがあって、鉄腕アトムの舞台となった未来都市が頭に浮かんでくる。 僕自身がこどものころ想像していた未来世界も手塚治虫や藤子不二雄の描くSF漫画の世界だったのだが、同じような未来世界を心に描いていた同世代の人間は多いのではないかな。 実際の未来は少し違うものになった訳だけれど、この予測された未来とは純粋に「予測された」ものではなくて政治的な思惑も多分に含んでいる気がする。 例えばその方面の権威者が「未来は原子力エネルギーが主流になります。」なんてビジョンを掲げたら、「ああ、そうなんだ、、、」と人々に普通に受け入れられて、未来はその方向に流れていく様な気がするぞ。 未来が一部の人間が敷いたレールの上を進んでいくものであるよりは、枝分かれしながら空に伸びていく木のようにいろいろな可能性がある方が魅力的に思える。 ひるがえって過去について考えてみると、これは遡れば遡るほど、地中に伸びていく根のように多様性と不確定性に満ちてくる。 太平洋戦争についていえば、身近に生き証人がいるのでそれがどんなだったかを、体験談というかたちで聞く事ができる。ほんの少しだけど肌で感じる事が出来る。 それが日清・日露になると”また聞き”になってちょっと遠い感じがしてくるし、さらに時代を遡るにつれて感情移入しにくくなってくる。本当かなと疑ってみたりもする。 実際に、権力者の交代や新たな科学的解明や遺跡の発見などで歴史上の事実とされてきたものがコロッとひっくり返ったり、違う説に取って代わられたりしている。 天動説がそうだし、縄文・弥生文化の定説も少しづつ変わってきている。 史実に現在からスポットライトを当てたその見え方が歴史だ。 そのスポットライトの位置は未来の進む方向で変わってくるし、一方、歴史を踏まえ未来の進む方向は決まってくる。 過去と未来が互いに作用しあい時間の数直線上にぐねぐねと根を枝を伸ばしていく、そんなイメージを小生、思い描いたのだ。 ところで最近「ユダの福音書」なるものが出版されたそうだ。 イエスの死後、彼に関する様々な伝承を資料としたまとめた言行録「福音書」のうち、マタイ、ヨハネ、ルカ、マルコによる4つ福音書が「正典」とされ現在のキリスト教の大きな柱とされているのだけれど、これら以外にも「外伝」とされるいわば異端の福音書がいくつかあって、「ユダの福音書」もこのひとつ。 1970年代にこれをふくむ古文書がエジプトで発見され、長きにわたる研究の結果ようやく解読、出版という運びになったそうだ。 その内容なんだけど、イエスの12人の使徒のひとり、裏切り者として悪名高いユダが実はイエスを完全に理解し、そのいいつけに従う最も忠実な弟子であるというもの。まじっすか? これがローマ正教会を震撼させる大事件なのか、水曜スペシャル川口浩探検隊ほどの信憑性として扱われているのかはわからないけれどキリスト教には実に様々な解釈があるなあと思い当たる。 でもこれはイスラム教にも、仏教にも言えることだ。 最初にあった唯一の教義は長い年月を経て、解釈の違いからどんどん枝分かれして、どんどん淘汰され、ゆらぎながら未来に進んでいく。一つの場所には留まっていられないのだ。 で、話は戻るけれどぼく個人としてはユダには悪いけれど裏切り者のままでいてほしいのだ。 なぜか?ということを以下に書き記します。 ブログネームにamadylanとあることから察せられる通りぼくはボブ・ディランが好きだ。大好きだ。 彼の作品には数多くの傑作があるが、それに負けない数の珍作・駄作もある。 そして新譜が出るたびに世界中のディラン・ファンは今でも一喜一憂しているのだ。 売れる、売れないは二の次で、とにかく自分がそのとき表現したいことを音にする。 美しい声で歌ってみたり(しゃがれ声がトレードマークなのに!)、ゴスペルに手を出してみたり、ライブで自分の名曲を原曲がわからないくらいまでに崩したりと珍奇な行動に走るけれど、彼が産まれてから出し続けている全ての音が一つの大きな音楽を奏でているんだ(バイク事故による長い長い全休符も含めて)。 そう思っちゃうのだ。人間ディランが好きなのだ。 彼が60年半ばにフォークギターをエレキギターに持ちかえフォークロックと呼ばれるスタイルに移行すると、プロテストソングを歌うフォークミュージシャンとしてしか彼のことを認識できなかった一部のファンは「商業主義に魂を売った!」と彼に猛然とブーイングを浴びせかけはじめる。 これに関してのあまりにも有名なエピソードあなたはご存知だろうか? (音源では何度となく聴いていたこのシーンを今年の初めに映画の中で映像として体験出来た。うれしい!) ディランがエレクトリックバンドと演奏するようになったあるライブで、曲間に聴衆から「ユダ(裏切り者)!」と野次が飛ぶ。 ざわつく会場の中でディランは I don't believe in you ( お前を信じない。)と自分の曲の名前で軽く返す。 そしてエレキをパピョ〜ンと挑発的に鳴らし、すこし歌うように you're lier (お前はうそつきだ〜 )と重ね、メンバーに振り返りplay it a fuckin' loud (でっかな音でいこう!)と一言、「ライク・ア・ローリング・ストーン」がドッカーンと始まる。 迷わない、振り返らない、我が道を行く。これぞロックというディランの姿勢がこのワン・シーンに凝縮されているのである。ただ、ただ、ひたすらにかっこいい。 ところが、この「ユダ!」という罵声が実は「いいやつ!」なんて意味になったらどうなるだろう。 反骨のロック・ミュージシャンが「この善人!」だなんて言われてそれだけでも屈辱なのに「いやいや、おれってけっこうワルだぜぇ。」なんてアホの丸出しの受け答えをしてることになってしまうではないか。 崇高なエピソードを失墜させぬためにもユダにはぜひとも裏切り者のままでいて欲しいのだ。
by amadylan
| 2006-09-04 11:21
| 雑記
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